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【養子縁組と言う名の人身売買 Prat.8】

【全 斗煥(チョン・ドゥファン)政権、『児童輸出』で年間200億稼いだ】
[深層取材-韓国の海外養子縁組65年] 2.養子縁組の政治経済学②
2017.09.12 00:16 Pressian

※この記事は、イ・ギョンウン国際人権法専門家、ジェーン・チョン・トレンカ真実と和解のための海外養子縁組会代表の支援で取材、作成されました。

1970年代、『迷子』を『孤児』として海外に送る

 1978年2月、慶北(キョンブク)慶山(キョンサン)で暮らすチョン・シハク氏夫妻は、長女のミファ(当時9才)ちゃんを失った。普段から親しくしていた隣の家のソ(25才)氏と出掛けた後、ミファちゃんは翌朝になっても帰宅しなかった。チョン氏夫妻は、管轄の竹島(チュクト)派出所に失踪を申請した。チョン氏は、ミファちゃんが8才の時に撮った写真を100枚コピーし、手配を警察に依頼したが、警察は署内に写真を配っただけで捜査への熱意を示さなかった。更に、チョン氏が誘拐犯と推定されるソ氏のモンタージュを描き、全国指名手配を要求すると、浦項(ポハン)警察署のハン刑事は、「ここをどこだと思って騒ぐんだ」と、チョン氏の喉元を掴み頬を殴った。

 父親のチョン氏は、私財をはたいてミファちゃんの行方を追う間、ソ氏が大邱(テグ)刑務所に児童誘拐容疑で服役していると聞き、刑事と一緒に2度面会し、ミファちゃんを釜山(プサン)南浦洞(ナムポドン)に置き去りにしたとソ氏が自白し、釜山(プサン)を探し回り、南浦洞(ナムポドン)派出所がミファちゃんを釜山市(プサンシ)女性会館に送った事を確認した。釜山(プサン)市女性会館は、釜山(プサン)市社会課に送り、釜山(プサン)市はミファちゃんを、臨時避難所に収容した。結局チョン氏は、ミファちゃんが誘拐されてから1年と10日後の1979年2月18日、養子縁組機関『東方児童福祉会(現東方社会福祉会)』を通じ、アメリカ人の里親に養子縁組された事を知った。

 更に衝撃的な事実は、東方児童福祉会には、ミファちゃんが証言した家族の名前、年齢、住所と家畜を育てている事などが、正確に記録されていた事である。東方社会福祉会は、ミファちゃんの証言だけで簡単に両親を見付ける事が出来たにも関わらず海外に養子縁組した。これら全ての事実は、チョン氏の粘り強い追跡で判明した。チョン氏が抗議すると、東方児童福祉会の職員は、「私費で両親探す義務は無い。告発するならしろ」と大声を上げたと言う。

 上記事件は1979年5月16日<東亜日報>に掲載された記事(『誘拐された娘を追跡した1年3ヶ月・・・誠意無き大人、すでにアメリカに養子縁組』)を要約したものである。

 同じような事件を1975年10月5日<朝鮮日報>も報じている。『1人息子を取り戻す』と言うタイトルの記事によると、1974年6月1日、父親の職場の宿舎から失踪した満4才のキム・タクウン君は、同日該当地域の派出所から警察署に移送された後、海外養子縁組機関の大韓社会福祉会大邱(テグ)分室に保護されていたが、同年11月5日『ペク・ジョンヒ』と言う名前でスウェーデンに養子縁組された。

 上記は、1970~80年代、道に迷った『迷子』が、どのような過程を経て海外に養子に行く事になるのかを示す例である。警察は、迷子の自宅を探す努力さえせず、孤児院や養子縁組機関の保護施設に子供を送り、そこで子供は両親がいるにも関わらず『孤児』として海外に養子縁組された。養子縁組されるまでの時間は、僅か5-6ヶ月。前の記事でも、養子縁組特例法が施行された2012年まで、迷子の発見による単独戸籍(孤児戸籍)の発行数と海外養子児童数は、驚く程一致している事を指摘している。[深層取材-韓国海外養子縁組65年] 1.追放される養子②

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▲年度別の「迷子の発見数」と「国外養子児童数比較
 (出典:「国際養子縁組に於ける児童の権利の国際法的保護」
 ソウル大学法学部イギョンウン博士の論文 2017)

北朝鮮の非難『貧しい韓国の唯一の輸出品は赤ん坊』

 1961年、朴正𤋮(パク・チョンヒ)政権が制定した孤児養子縁組特例法で、法的根拠を用意した海外養子縁組は、1970~80年代急増した。1950年代、戦争孤児の救済の為の臨時的措置を名分に始まった海外養子縁組は、『制度化』され、韓国が経済的に発展した後も続いた。韓国は、国家的支援と保護が必要な児童を海外に送り、これら児童を自主的に見守り、保護する為に必要な福祉システムの構築を疎かにした。(Sarri,Baik & Bombyk,『韓国とアメリカの国際養子縁組に於ける目的の変移と依存関係』 1998)

 特に、韓国の養子の2/3以上がアメリカに養子縁組されたと言う点で、海外養子縁組は、アメリカのもう1つの『援助』だった。1970年代中盤~80年代後半、アメリカに養子縁組された児童の20~30%は韓国の児童だった。(Kane S.、『認識論的観点から見た国際養子縁組と児童の移動』 1993)。今日の韓国系アメリカ人に占める韓国の養子の割合は10%に達する。(しかし、養子はアメリカ国内の韓国人のコミュニティに簡単に編入される事は無い。韓国の児童は、韓国の養子縁組機関と協力するアメリカの養子縁組機関を通じ、ミネソタ、ニューヨーク、ミシガンなど、主に7州に養子縁組される。これらの地域の在米同胞の割合は高く無い。また、養子は成人前まで、白人の中産階級の家庭で養育される為、韓国語、文化、情緒の習得は困難である。)

 朴正𤋮(パク・チョンヒ)政権は、1970年代初期、北朝鮮の非難で一時海外養子縁組中止を政策目標にした事もある。当時、北朝鮮は、「韓国は経済的利益を得る為、赤ん坊を西洋人に売っている、貧しい韓国が輸出出来る商品は子供だけ」とし、激しく非難した。(23周年、<海外養子縁組と韓国の民族主義> 2008)。北朝鮮も朝鮮戦争後、委託養育や機関保護の為に孤児をソ連や東ヨーロッパの国に送ったが、教師が児童に同伴し、後に北朝鮮に戻ったと言う。北朝鮮の非難に朴正𤋮(パク・チョンヒ)政権は、1976年養子縁組特例法を制定し、国内の養子縁組を活性化しようとした。朴正𤋮(パク・チョンヒ)政権は、国内養子縁組活性化5ヶ年計画を立て、養子縁組機関に国内養子縁組数に比例し、海外養子縁組数を割振る割当制を導入した。更に、毎年国内養子縁組を10%拡大し、1985年には海外養子縁組を中止する計画を立てた。

 しかし、海外養子縁組割当制は、導入2年で有耶無耶になるなど、朴正𤋮(パク・チョンヒ)政権の『海外養子縁組中止』計画は、宣言に留まった。北朝鮮の非難に対抗する政治的要求以上に、当面の経済開発の為、福祉費用を最小限に抑えたいとする経済的要求の方が大きかった。孤児院など、児童保護施設に送られて来た海外の援助も1970年代以降減少する。朴正𤋮(パク・チョンヒ)政権は、財政を投入し、児童保護施設を増やしたり、1人親家庭など脆弱家庭支援で無く、海外養子縁組を選択したのである。
 特に、海外養子縁組は、里親から少なくない手数料を得る『2重の経済的恩恵』を齎す事業だった。朴正𤋮(パク・チョンヒ)政権は、1967年孤児養子縁組特例法の改正に、海外養子縁組業務は政府が許可した機関に限定すると明記し、関連費用を里親に請求する事にした。それに歩調を合わせ、1964年大韓社会福祉会、1971年東方児童福祉会(1972年~養子縁組事業開始)が設立され、養子縁組機関を通じた海外養子縁組は、一種の児童福祉システムの地位を手に入れた。1960年代養子縁組機関は、里親から1児童に付き約130ドル受け取ったと言う。1965年、韓国の1人当りのGDPは106ドルに過ぎなかった。

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全斗煥(チョン・ドゥファン)政権、
『養子縁組は移民活性化であり民間外交』


 朴正𤋮(パク・チョンヒ)政権で制度化された海外養子縁組は、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の下に急増する。北朝鮮など外部の視線を意識した朴正𤋮(パク・チョンヒ)政権とは異なり、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権は海外養子縁組を、『移民の拡大、民間外交』の名分で大幅に拡大した(Sarri,Baik & Bombyk、1998)。その結果、1980年代、韓国児童の海外養子縁組はピークに達し、10年間に65,511人の児童が海外に養子縁組された(保健福祉部統計)。特に、年間8,000人以上の児童が海外に養子縁組された1985年(8,837人)と1986年(8,680人)を含め、1984年~1988年までの5年間は、1年間の出生数の1%を上回る児童が海外に養子縁組された。

表2.年度別出生数と海外養子数
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▲韓国女性政策研究院、『韓国の未婚の母の福祉に関する研究:海外養子縁組関連統計、先進国の福祉政策を中心に』,2009年引用

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▲年度別海外養子の割合(%)ⓒプレシアン


 この時期にもアメリカの養子縁組が多数を占める傾向は続いた。1976~1981年には、韓国の養子がアメリカの海外養子縁組全体の50%を占め、1986年アメリカに養子縁組された韓国の養子は6,188人で、アメリカの海外養子縁組全体の59%に達した。1980年代後半、駐韓アメリカ大使館で、韓国児童の養子縁組の為にアメリカのVISAの発行を担当したINS移民VISA担当領事ロバート・エクマン氏は、韓国で養子縁組は『ビジネス』になってしまったと診断した。彼は1988年、アメリカの<プログレッシブ>のインタビューに、「1ヶ月に500人の赤ん坊は、単に人道的な理由だけでは説明出来ない過剰な数である。人道主義停止事業が始まる地点はどこなのか?尋ねる必要がる」と話した。

アメリカメディア『1980年代、韓国児童1人に付き5,000ドル、
児童輸出で年間2,000万ドル稼ぐ』


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▲アメリカの月刊誌<プログレッシブ>の1988年1月号の表紙
  (c)中央養子縁組院資料から引用

 アメリカの進歩的な月刊誌<プログレッシブ>は、1988年1月カバーストーリーで韓国の海外養子縁組を扱った。『赤ん坊売買-韓国が赤ん坊を作り、アメリカが買う』と言うタイトルの記事は、1ヶ月に数百人が海外に養子縁組される韓国の実態を詳細に扱った。

 <プログレッシブ>は、養子縁組機関は里親から児童1人に付き5,000ドル受け取り、韓国が海外養子縁組で稼ぐ金は年間1,500万~2,000万ドルに達すると報じた。児童1人の養子縁組費用5,000ドルを基準にすれば、8,837人の児童が海外に養子縁組された1985年、総額約4,418万ドルが養子縁組を媒介に韓国に流入した計算になる。

 更に、<プログレッシブ>は、韓国政府は事実上『準政府機関』の養子縁組機関に養子縁組業務を押し付け、政策的利益を享受していると批判した。

 「海外養子縁組は、政府に多数の目的を提供する。1、彼らは年間約1,500万ドル~2,000万ドル程度の金を齎す。2、政府は(彼らは予算の無駄と考えている節がある)子供を世話する費用を削減する。3、韓国政府の強迫観念的な人口制御に役立つ。最後に、海外養子縁組は、孤児と捨て子をどうすべきかと言う難しい社会的問題も解決する。」


 同年、<ニューヨークタイムズ>も、韓国の海外養子縁組を批判する記事を掲載する。

 「アジアの新興工業国で88年のオリンピックの主催国である事を誇る韓国は、政府の秘密支援の下、毎年約6,000人の児童をアメリカ家庭に養子縁組させ、アメリカ家庭に養子縁組される海外の児童の59%が韓国の児童である。」


 1986年のアジア競技大会、1988年のオリンピックをキッカケに、「オリンピックを誘致するほど目覚ましい経済発展を遂げた国が、貧しくて子供を育てる事が出来ないと海外に養子を送る」矛盾を指摘する海外メディアの報道が溢れた。報道の影響で国内メディアからも、「毎年8,000人・・・『孤児輸出』世界1位』(<京郷新聞>1989年1月30日)、『赤ん坊輸出1位の汚名、洗う事は出来ないのか?』(<ハンギョレ>1989年2月10日)など、批判報道が続いた。

 国内外のメディアの批判報道が、88年のオリンピック前後まで続くと、政府は養子縁組事業改善指針を用意した。それに伴い、1986年ピークに達した海外入養(養子縁組)児童数は、僅か3年後の1989年4,191人と半分以下に減少し、1年後の1990年は2,962人に再び半分近く減少した。その間、出産率が急激に低下する事も無く、僅か4年後、海外入養児童数は1/3水準に減少し、2度目の『漢江(ハンガン)の奇跡』が起きたのである。つまり、必要以上に多数の児童を海外養子縁組に送っていたと言う事である。

 全斗煥(チョン・ドゥファン)政権で『移民活性化』の一環として奨励された海外養子縁組は、『児童輸出国』と言う汚名で国のイメージを失墜させ、盧泰愚(ノ・テウ)政権で、再び政策の方向が変わる。1989年、海外養子縁組を縮小の為、国内の養子縁組を拡大するとし、国内の養子縁組の為の『聖家庭養子縁組院』が設立される。更に、ノ盧泰愚(ノ・テウ)政権は、混血児や障害児以外の児童の海外養子縁組を1996年まで停止する計画を立てた。外務部が1990年国会に提出した国政監査資料によると、毎年約4,000人に達する海外養子縁組数を、1995年まで毎年10~20%縮小し、1996年以降、完全に中止する計画を発表する。

 しかし、この計画は、国内の養子縁組数不足を理由に金泳三(キム・ヨンサム)政権に廃棄された。金泳三(キム・ヨンサム)政権は、国内の里親家庭に住宅購入費用500~1,000万ウォン増額支援、障害児の里親家庭に養育補助手当てや医療費支援など、国内の養子縁組活性化政策を展開する。しかし、1997年のIMF危機で、海外養子縁組は再び小幅に増加する。
http://www.pressian.com/news/article.html?no=167856

韓国政府、政府機関の統計はインチキ。
よって、実際の児童数は、もっと多い。

このシリーズは1もあるらしい。
頑張って翻訳するから待ってね?(笑)
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プロフィール

nanakotedy

Author:nanakotedy
イタリア ローマで生まれ、10歳までイタリア育ち
大学卒業後、帰国
母方の祖父母と同居中

度重なる歴史認識の違いと言う言葉に、改めて近代史を学び直しています

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