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【養子縁組と言う名の人身売買 Prat.7】

【李承晩(イ・スンマン)政権の海外養子縁組は『混血児の清掃』だった】
[深層取材-韓国海外養子縁組65年]養子縁組の政治経済学①

※この記事は、イ・ギョンウン国際人権法専門家、ジェーン・チョン・トレンカ真実と和解のための海外養子縁組会代表の支援で取材、作成されました。

 「国際養子縁組は韓国で『生まれ』ました。西洋の里親によるアジアの子供の大規模な養子縁組は、1950年代の朝鮮戦争直後に遡る。」 (セモン、『21世紀のアジア国際養子縁組』、2014)

 国際養子縁組に韓国が占める地位は独歩的である。韓国は最も長期間、最も多くの児童を海外に養子として送った国である。(1953年~現在まで、韓国政府が提示する統計情報で約16万人、国際社会の推定では約20万人以上を海外に養子として送った)。

 更に重要な事実は、韓国が産業化された国際養子縁組の『基本的な枠組み』を作ったと言う事である。特に、韓国とアメリカの国際養子縁組により、現在の国際養子縁組の大半の問題点が誕生したと言っても過言では無い。そうした点で、韓国で、国際養子縁組は、最初にどのように発生し、どんな制度と法律で維持されて来たのかを検討する事は、現在の問題を解く鍵でもある。

オーストリア人女性と結婚した李承晩、『一国一民主義』に固執

 韓国の海外養子縁組は1953年、李承晩(イ・スンマン)政権の時に始まった。オーストリア人女性と結婚した李承晩(イ・スンマン)大統領は、『一国一民族主義』を政治的信念として掲げた。それに伴い、韓国戦争当時、外国の軍人と韓国女性の間に生まれた混血児は、『父親の国』に送る事が政策の方針だった。イ大統領は1954年の大統領緊急命令で、混血児の国外養子縁組を推進する為、保健社会部の傘下に、『韓国児童養護会』(社会福祉会の前身)と呼ばれる養子縁組機関を作った。

 キム・ホス ニューヨーク市立大学教授は、「混血児を産んだ女性は基地村の女性、つまり軍隊の売春婦とみなされた。母親の職業の烙印を受け継いだ子供達は、韓国以外に家庭を探すべき子供達とみなされた」と、当時の国際養子縁組の性格について説明した。(キム・ホス、『子供を育てられなかった母親 - 朝鮮戦争以降の韓国の生母」<韓国海外養子縁組:超国家的児童養育実験に奮闘する養子縁組叙事50年>に収録)

 イ・ギョンウン博士は、「当時の海外養子縁組は、養子縁組で無く、混血児の集団的な国際移住だった」、「戦後発生した混血児問題を、私的機関を使って解決したもので、これらの社会的排除を、『父親の国』に送ると言う名分で正当化した」と話した。1975年のベトナム戦争当時、南ベトナムの首都だったサイゴン(現ホーチミン市)が、北ベトナム軍によって陥落する前に米軍が行った『ベビーリフト(baby lift)』作戦に近い性格だとの指摘である。米軍は当時、参戦国の兵士とベトナム人女性の間に産まれた混血児を始め、3,300人以上の『戦争孤児』をアメリカやヨーロッパに送り、養子縁組させた事が分かった。

 朝鮮戦争直後の海外養子縁組は、関連する明確な法令も無く、アメリカ人が設立した孤児院などを通じ、『児童緊急救護』を名分に行われた。特に、混血児を母親が養育している場合でも、それを支援する代わりに、母子家庭を解体し、海外養子縁組として送った。今でも韓国の養子縁組は、母子家庭支援の代替手段に使われている。従って、『戦争孤児』を海外に養子縁組に送ったと言うのは、厳密に言えば間違っている。母親がいても、混血児は家父長的で、閉鎖的な韓国社会から事実上『強制移住』されたのである。

 ジェーン・チョン トレンカ代表は、朝鮮戦争以降の混血児の国際養子縁組について、「当時、多数の国が戦争を経験し、戦争で混血児を含む保護を必要とする児童が多数発生した。しかし、他のどんな国でも、これほど大勢の養子を、『父親の国』に送った例は無い。混血児は敵の子供で無かったにも関わらず、なぜ彼らを送り出す必要があったのか?本当に理解し難い」と話した。

 中央養子縁組院によると、1955年~1961年までに4,185人の混血児が海外養子となり、内4,155人がアメリカに養子縁組された。

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▲李承晩(イ・スンマン)政権は、大規模に混血児を調査し、
 これらを積極的に海外養子縁組に送った。
(資料出典:保健社会部『建国10周年保健社会行政概観』 (1958) p.317.
(中央養子縁組院保管本参照),イ・ギョンワンの論文から再引用)

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▲ホルト両者会で海外養子縁組を待つ児童
 (c)中央養子縁組院(ホールト児童福祉会提供)

イ・スンマンとホルト、代理養子縁組を誕生させる

 朝鮮戦争直後、児童を海外に養子縁組する過程で決定的な役割を果たした人物が、すぐにハリー・ホルトとバーサー・ホルト夫妻である。オレゴン州で生活する平凡な農夫だったホルト夫妻は、社会福祉機関『ワールドビジョン』を設立する。ピアース牧師の講演に感銘し、韓国の混血児を支援する仕事を始めようと決心する。ホールト夫婦にとって、韓国児童の養子縁組は、宗教的な信念に基づくものだった。

 アメリカで、朝鮮戦争以降、韓国の児童を養子にする根拠となった法律は『難民救護法』である。1953年、『難民救護法』第5項により、『10才未満の資格を備えた孤児に4,000件の特別非割り当てVISAが策定』された事に伴い、韓国児童の移民が可能になった。当時の難民救護法は、1家庭に付き2人の児童に限り養子出来るようになっていた。しかし、ハリー・ホルトは、ワールドビジョンを通じ、8人の韓国の子供を養子にすると発表する。ワールドビジョンは、オレゴン州の上院議員に手紙を送り、ホールト夫妻の為の特別法の議会通過を要請した。上院議員は、アイゼンハワー大統領の前で行った演説で、「韓国と言う荒廃に苦しむ国の小さな8人の子供に、アメリカでの安全と慰労を施す事以上に高貴で利他的な行為がどこにあるのか?」と主張した。アメリカ議会は、ホールト夫妻の為の特別法を通過させ、ホールトは1955年10月14日、自身が養子にした児童8人を含む12人の韓国児童を連れてポートランド空港に降りる事になる。

 これをキッカケに、ホールトは1956年、『ホールト両者会』を設立、アメリカでの養子縁組手続きに関連する実務支援を担当する。彼は韓国で大規模な孤児院と嬰児院を運営し、1956年12月からは養子を輸送する為、3~4ヶ月に1回、チャーター機で養子を移住させる。現在もホールト児童福祉会は、韓国で海外養子縁組業務を続けている。理事長のマリー・ホルトは、ハリー・ホルトの娘である。

 イ・スンマン政権とホルトの協業で誕生した海外養子縁組の方法が、『代理養子縁組』である。養父母が養子の出生国を訪れる必要は無く、代理人(養子縁組機関)が児童の出生国で全てのプロセスを代行し、児童を養父母に引き継ぐ方法である。これは、以前の海外養子縁組には見られなかった形である。

 ワールドビジョンの設立者ボブ・ピアスとハリー・ホルトの妻バーサー・ホルトは、イ・スンマン政権の社会部長官に会い1956年、代理養子縁組方式について合意した。それに歩調を合わせ、ハリー・ホルトは養子縁組事業を円滑に行えるよう、期限を控えたアメリカの難民救済法の延長に向け積極的に立法を請願し、1956年12月期限予定だった難民救済法の期限は1961年6月まで延長される。

 『代理養子縁組方式』は、当時のアメリカ社会の福祉界で論議を生んだ。既存の社会福祉機関は、里親と養子が1度も顔を合わせず家族になる事の危険性について問題を提起した。それに対抗し、ホールトは戦後、緊急スローガン次元で、大規模な韓国児童の養子縁組は避けられず、養子の里親になる事を望む大半の夫婦が韓国を訪れ手続きを踏む時間的、経済的余裕が無いと主張した。彼は、養子を望む里親に、「もし、代理養子縁組が中断されれば、皆さんは子供を得る事が出来なくなる。今すぐ、皆さんの地域の国会議員に手紙を書こう」と、政治的に動員した。

 当時、ホルトを通じた養子縁組には、6ヶ月程度の時間しかかからなかった。里親家庭の適合度調査もせず、牧師の『推薦書』程度で養子縁組出来た。この過程で、一部の州の裁判所では、『孤児戸籍』と養子縁組機関長の同意書以外何も無い韓国児童の養子縁組裁判を拒否する例が発生した。

 このように、朝鮮戦争以降、韓国とアメリカの養子縁組は、以前(第2次世界大戦直後のヨーロッパの児童のアメリカへの養子縁組)と明確に差がある。養子の年齢は嬰児(0~2才)と里親が最も好む年齢に下がり、手続きを代行する養子縁組専門機関の出資で大規模な養子縁組が可能になった。更に、里親と児童の人種的ミスマッチが発生し、里親と児童の出身国との経済的、文化的格差が拡大した。両親と子供の人種と文化的格差は、里親家庭内の相互適応とアイデンティティの形成と言う新たな社会的課題を生んだ。

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▲1955年、ハリー・ホルト氏と養子縁組が成立した韓国の子供8人を含む12人が
 飛行機を降りる場面。子供を抱いて最初に降りる2人がハリー・ホルト(右)とボーダー・ホルト夫妻である。ⓒ養子縁組院(ホルト児童福祉会提供)

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▲サンフランシスコに養子縁組された嬰児97人が特別機で移送される場面。
  飛行機の座席を外した場所に置いた紙の箱に子供を寝かせ、世話係のベビューシッターが座っている。(c)中央養子縁組院(ホールト児童福祉会提供)

韓国児童の養子縁組は、アメリカの外交政策の一部だった

 海外に養子縁組された韓国の児童の2/3以上がアメリカに養子縁組された。国際養子縁組が世界一多い国がアメリカである事を考慮しても、これほど多数の児童が、アメリカに渡った事実に驚く。特に、1950年代のアメリカの移民制度が徹底した『人種優先』だったと言う点で、養子縁組と言う形で多数の韓国移民をアメリカが受け入れた事は異例な事である。UCバークレー大学のキャサリン教授は、「20世紀前半の排除(exclusion)は、アジア人のアメリカ移民の歴史として支配的な主題だった。これは、アメリカの移民法が成文化される1924年まで、アジア人の移民は事実上禁止されていた」と指摘する。その後、労働市場に於ける必要性から中国など一部のアジアの国の労働移民を受け入れたが、家族同伴の移民は相当期間許可されなかった。海外養子縁組による移民は、このような『排除』の流れから外れている。

 また、白人の家庭が黒人やインディアンの児童の養子縁組について、黒人やインディアン コミュニティでは、『人種的・文化的抹殺』が報告され、反対の流れがあった点も韓国児童の『人種間の養子縁組』が当時のアメリカ社会では例外的な流れだった事が分かる。実際、1970年代、インディアンの児童の白人家庭への養子縁組を禁止する『インディアン児童福祉法』が制定された。

 ニューヨーク市立大学のキム・ホス教授は、「この時代の海外養子縁組は、里親と混血児童の民間次元の人道的救済活動だったけで無く、アメリカの冷戦体制中の対アジア政策-和合と封鎖-外交政策の一部で、韓国とアメリカの養子縁組の政治的な背景を分析した。キム教授は、「当時の冷戦イデオロギーの下、西洋のキリスト教家庭での養子縁組は、アメリカの自由陣営の指導者を、韓国と子供達を戦争による荒廃と貧困から救い、共産主義の脅威から守る平和の守護者として描き出す事に大きな役割を果たした」と強調した。

 ソ連と体制を競うアメリカの立場では、『世界を救援する国』を象徴するものとして、養子縁組はぴたりと嵌った。このように、韓国とアメリカの国際養子縁組が、一種の児童福祉システムの席をいち早く占める事が出来た理由は、両国の利害関係が合致した結果である。


2007年、2008年、2014年、韓国の養子養父母に殺害される

 イ・ギョンウン博士は、韓国に触発された国際養子縁組の第2の波について、「市場原理に従って私的機関が主導し、児童送出国や受入国は、児童の保護を強化する為の法制で無く、国際養子縁組の手続きと基準を大幅に簡素化し、私的機関の仲介過程を簡素化する法制で対応した」と指摘する。

 代理養子縁組は、その後60数年間、国際養子縁組を世界に拡大する事に決定的な役割を果たした。最大の児童送出国の1つである韓国は、養子縁組特例法を改正し、2013年以降、養父母が家庭裁判所を訪れ、養子縁組裁判が行われるようになり、代理養子縁組は消えた。

 イ博士は、代理養子縁組について、「養子の人権への様々な危険要素を有し、中でも最も深刻な事は、養父母の資格審査の問題」と指摘する。「送出国に養父母の資格を審査する手段は無く、全面的に受入国の中継機関に頼らざる得ない構造の上、中継機関は、受入国の公的な児童福祉・社会福祉システムに属さない私的機関だった。受入国の児童福祉や養子縁組の適合基準や専門性をベースとしたもので無く、国際養子縁組を仲介・支援する目的で活動している」と強調した。

 養子の殺害、市民権の未取得、追放など、悲劇的な事件の原因は、このような代理養子縁組の慣行にあると言っても過言では無い。

 2014年、養父ブライアン・パトリック・オカラハンの虐待で死亡したヒョンス事件は、国内でも知られているが、それ以前にも、養子が養父母に殺害されるケースは1度や2度では無かった。2008年アメリカ人養父スティーブン・セプルは、韓国の養子4人を野球のバットで殴り殺し、その後、妻を殺して自殺した。更に、2007年養子のチョン・ヒミンは、養母のレベッカ・キャリーに殺害された。当時キャリーは、殺人罪の判決を受けたが、プリバーゲニン(特定の証言をする条件で、疑いや量刑を軽減されること)で、重犯罪容疑を脱し、13ヶ月の嬰児を殺害したにも関わらず、3年収監後釈放された。

 韓国に追放され、苦しい生活を送り、5月に自殺したフィリップ・クレー氏の問題も、養父母が約束を守らなかった事で始まったと言える。アメリカに養子縁組された韓国養子の多くが市民権を取得出来ない理由は、代理養子縁組後の心変わりが多いからである。

 代理養子縁組は、1961年パク・チョンヒ政権が制定した孤児養子縁組特例法により法制化される。孤児養子縁組特例法(孤児入養特別法)第6条は、「外国人は、各令が定めた機関によって養子縁組手続きの一部を代理出来る」と規定している。イ・ギョンウン博士は、この法律について、「韓国の法律の伝統と乖離した馴染みの薄い法規で、比較法的に見ても、当時のどこの国でも法例を見付ける事は難しい」と説明した。李承晩(イ・スンマン)政権で始まり、当時すでに実践されていた養子縁組機関による韓米の国際養子縁組を裏付ける為の法制化だったのでは無いかと解釈出来ると言う事である。(アメリカは1961年以降、代理養子縁組を禁止したが、韓国の孤児養子縁組特例法を根拠に韓米の養子縁組の形は、それほど変わらなかった)。

 1961年アメリカの移民法に『孤児』規定が出来た。それ以前は、難民法のクォーター制限で入養児童数を制限する方法から、アメリカの養父母が養子縁組を望む『孤児』規定を満たす児童は、数を制限されずにアメリカに入国出来る事になった。

 移民法の『孤児』規定は、1980年代、毎年数千人がアメリカに養子縁組される法的根拠になった。

表2.1953~1970年、年度別の養子縁組児童数
art_1503289398_2017091220475165b.jpg出典:保健福祉部、中央養子縁組院

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▲文中に使用した写真は中央養子縁組院発行の『写真で見る韓国の養子縁組
 の歴史(The History of Adoption in Korea in Photographs)』に掲載され
 たものを引用した。最上段の写真はホールト夫婦が養子にした8人の韓国児童、
 右は中央養子縁組院のパンフレット.、左は混血児と一緒のパール・バック氏。小
 説家の彼女は、朝鮮戦争直後、孤児の為の社会福祉施設を作った。パール・バ
 ック財団を通じてもアメリカとオーストラリアに約24,000人が養子縁組されたと記
 録されているが、韓国政府の公式統計では、その数字は抜けている。
 (c)中央養子縁組院

http://www.pressian.com/news/article.html?no=166089

不法移民を追放しようとするトランプと、保守政権を批判する目的の記事だと思うけど、参考までに・・・。

進駐軍の兵士、又は国連軍の兵士と現地女性の間に生まれた混血児の問題は、韓国に限った話では無かった。
混血児の母 澤田 美喜①
混血児の母 澤田 美喜②
混血児の母 澤田 美喜③
混血児の母 澤田 美喜④
混血児の母 澤田 美喜⑤

混血児の母となって―澤田美喜の生涯

GHQと戦った女 沢田美喜
澤田美喜―黒い肌と白い心 (人間の記録)
混血孤児―エリザベス・サンダース・ホームへの道
図書館にあるかしら?
読んでみたいから、探しに出掛けてみようと思う。

プレシアンの記事は長い。
第2弾 『全 斗煥(チョン・ドゥファン)政権、『児童輸出』で年間200億稼いだ』・・・もう少し待ってね?
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nanakotedy

Author:nanakotedy
イタリア ローマで生まれ、10歳までイタリア育ち
大学卒業後、帰国
母方の祖父母と同居中

度重なる歴史認識の違いと言う言葉に、改めて近代史を学び直しています

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