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【韓国軍特殊慰安隊、朝鮮戦争の第5種補給品は『女』だった】
2016.07.27 16:01 タジ日報

1950年6月25日、北朝鮮人民軍が、38度線を越え、進軍を始める。その後、速かに韓国地域の大半を占領する事に成功する。

キム氏は10代少女だった。花のように美しく、落ちる木の葉を見て笑顔になる年齢、最も煌びやかであるべき時だったが、戦争の前で、少女の思春期には、どんな意味も与えられなかった。38度線の南の少女は、戦争を避け、南へ南へと逃げた。北の少女は、鉱山に連行され、搾取された。戦争に必要とされる物資を満たすには、幼い少女の労働力さえ惜しい状況だった。

1950年9月15日、仁川(インチョン)上陸作戦。国軍と連合軍は、北朝鮮地域の大半を占領するに至る。

人民軍は退却し、キム氏ら少女を解放してくれた。少女は、故郷に向かった。南へ、南へ。途中で米軍と韓国軍の共同部隊に会った。少女は、ただの子供に過ぎなかったが、軍人には赤(共産主義者)でしかなかった。少し若い赤(共産主義者)である。

少女は捕虜になった。そして、そこで別の少女に会う。彼女達は、昼間は軍人の食事や洗濯などの雑用を、夜は軍人に呼ばれた。少女は、軍人の性欲を解消するはけ口に相違なかった。韓国軍慰安婦である。

1953年休戦。しかし、キム氏は故郷に戻れなかった。列強の国々の紳士が任意に定めた休戦ラインを越える事は出来なかった。彼女のように故郷を失った者は、休戦ライン近くに集まり村を作った。

長い歳月と共に少女は老婆になった。桃色(ポクスンアッピッ)の頬は、いつの間にか光を失い、シワが過ぎ去った時間を積み重ねていた。

96年の冬、老婆はとある博士課程の女子生徒に会った。朝鮮戦争当時の事を尋ねる生徒に、老婆はその時見た少女の話を打ち明けた。その女子生徒こそ、2016年の今日まで、韓国軍慰安婦問題の唯一の研究者キム・クィオク教授である。

キム・クィオク教授は、老婆の証言に基づき、韓国軍慰安婦の研究に着手した。そんなある日、国防部軍事編纂研究所の本棚のどこかに並んでいた<後方戦史>に、決定的な証拠を発見する。大韓民国陸軍の公式資料に、韓国軍慰安婦の記録が残っていた。

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その後研究は急流に乗る。そして2002年、日本で行われた第5回『東アジアの平和と人権国際シンポジウム』で、韓国軍慰安婦の存在を発表する。

この途方も無い事実は、<朝日新聞>と<オーマイニュース>に、同時に報じられた。国内の主な日刊紙やニュースも、この衝撃を扱った。

しかし、この事実は、まもなく埋められてしまう。

誰でも閲覧可能だった<後方戦死>は、外部の手の届かない場所に片付けられ、キム・クィオク教授は上層ラインの影響を受けた大学当局から『気を付けろ』と警告された。韓国の知識人は、「あなたの研究成果は認めるが、敢えて民族の恥部を、このように公表する必要があるのか」と、日本軍慰安婦問題の解決の妨げになる事を懸念した。

日本軍『慰安婦』被害者も、『カミングアウト』まで沢山悩んだに違いない。

しかし、彼女達は日本帝国主義の被害者だった為、韓国社会は受け入れた(それさえ非常に険しい過程を経た事は言うまでもない)。当初隠していた問題でも、韓国人の愛国心を刺激する要素の1つだと分かれば利用する。

そのプロパガンダの中で、日本帝国軍人は、汚い変態のように絶対悪として描かれる。そして、その対極点に、植民地朝鮮の女性がいる。

彼女達は、日本男性の野蛮さに引き裂かれたにも関わらず、変らず花のように美しい姿の絶対善として存在する。このような対立構図の中で、韓国人は炸裂するような怒りを感じる。そして、この地に再びこのような事が起きないよう、国家の力を養う事に献身し、忠誠を誓うと決心する。それが、韓国社会が日本軍'慰安婦'問題を見る支配的な視線の1つである。

この対立構図の中では、見ず知らずの少女を拉致、又は騙し、日本軍に売り渡した朝鮮人や被支配的ながらも日本軍人、或いは満州軍人として参戦し、慰安婦制度の恩恵を享受した朝鮮人男性の存在は忘れ去られる。

これらの存在を計算に入れた瞬間、日本軍慰安婦問題が極めて複雑になるからである。

絶対善と絶対悪の対立構図の鮮明さを失うからである。ある社会で、どのような見方が絶対多数の同調を得られるのか?恐らく、このような善悪の対立構造の中で、該当社会が絶対善の位置にポジショニングされている場合の可能性が高い。

一方、韓国軍慰安婦問題は、それ自体が複雑である。加害者は韓国人男性で、国家の為に献身的に戦った英雄を、我々は汚らしく変態のような日本軍人と同一視出来ないからである。

しかし、あった事実に耳を塞ぎ、目を閉じ、見たいものだけを見聞きするのであれば、我々が憎悪する日本帝国主義と何が違うのか?

2016年の今日、果たして我々は、国家とイデオロギーと言う皮を剥いだ後も、人権を口にする事が出来るだろうか?

大韓民国陸軍特殊慰安隊

1950年6月25日の朝鮮戦争勃発以降、北朝鮮人民軍は、急速に韓国地域の大半を占領し、同年9月15日の仁川(インチョン)上陸作戦をキッカケに、国軍と連合軍は北朝鮮地域の大半を占領するに至る。その後、中国人民支援軍の参戦で、1950年12月~1951年初めまで、北朝鮮がソウルを再占領する1.4後退があった。

1951年3月、韓国がソウルを再奪還し、戦争は現在の休戦ライン付近に固着され、これは1953年7月27日休戦協定締結まで続いた。朝鮮戦争全体の期間の約2/3の期間、前線では戦闘が絶え間なく続き、大韓民国陸軍本部は、韓国軍慰安婦、つまり『特殊慰安隊』を設置した。この特殊慰安隊は、休戦後の1954年3月、ようやく閉鎖される。

朝鮮戦争が終わってから3年過ぎた1956年、陸軍本部は<後方戦死(人事編)>と言う本を出版する。本の序文では、後の軍の後方支援業務の発展に寄与したいと思うと、出版目的を明かしている。この本こそが、特殊慰安隊の内容を明らかにしている。これは、特殊慰安隊が、朝鮮戦争期の軍人の後方支援目的の軍隊施設の1つで、国家によって創設されたものである事を示している。

設置の背景・目的を見てみよう

顕在化する理由だけを持って簡単に国家施策に逆行する矛盾した活動と決めつける事が出来れば別問題かも知れないが、実質的に士気高揚は勿論、実際、戦時下で避けられない弊害を未然に防止出来るのみならず、長期間見返りのない戦闘による異性への欲求からくる生理的作用による性格の変化やうつ病で、業務に支障をきたすことを予防するため特殊慰安隊を設置する事になった。

陸軍本部<後方戦史>1956:148


つまり、軍人の士気高揚と、性欲を処理出来ない事に起因する影響を未然に防止する為に設置したのが特殊慰安隊だったと言う事である。

男性の性欲は自身で処理出来ないと言う考え、そして女性をそのはけ口として見る視線は、2016年の今日の日常の中でも、簡単に見付ける事が出来る(余り驚くべき事で無い事に驚くべきである)。

慰安隊は小隊形式で偏在した。ソウルには、中(チュン)区忠武路(チュンムロ)、中(チュング)区初動、城東(ソンドン)区新堂洞(シンダンドン)に3個小隊が設置され、江陵(カンヌン)には、成徳郡老岩里(ノアムリ)に1個小隊、春川(チュンチョン)、原州(ウォンジュ)、束草(ソクチョ)などにも、様々な慰安対があった。1953年には、ソウル忠武路(チュンムロ)鍾路(チョンノ)和信デパート前、鍾路(チョンノ)団成社(タンソンサ)前、そして永登浦(ヨンドンポ)のロータリーに4個小隊が追加設置された。

特殊慰安隊の規模については、<後方戦史>の記録は明確で無い。説明と表で、それぞれ異なる数値を提示しているからである。一方、朝鮮戦争当時、国軍の主な指揮官の1人だったチェ・ミョンシン将軍は、次のように証言している。

当時、我が陸軍は、志気の高揚の為、約60人を1個中隊とする慰安婦隊を、3~4個運用していた。

チェ・ミョンシン《斜死線を越えて越えて: チェ・ミョンシン回顧録》、ソウル:毎経出版株式会社1994 p267


これを基に計算すると、国軍の特殊慰安隊には、大体180~240人程度の慰安婦がいた事が分かる。1953年に新設された4個小隊を合わせると、300人を越えると推定される。

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1952年韓国軍特殊慰安隊月別実績統計表
大韓民国陸軍本部<後方戦死(人事編)>120ページ

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1952年韓国軍特殊慰安隊月別実績統計表(ハングル)
キム・クィオク(2014)、日本植民主義が朝鮮戦争期、
韓国軍慰安婦制度に及ぼした影響と課題、社会と歴史103 p93

陸軍本部の<後方戦死>には、1952年特殊慰安隊実績統計表が収録されている。ソウルの特殊慰安隊3個小隊、江陵(カンヌン)の1個小隊の『実績』を、月別に表に提示しているのである。ここで言う実績とは『被慰安者』の数である。被慰安者とは、慰安婦の慰労と安寧を求めた者を言う。つまり、慰安婦で性欲を解消した軍人である。

初めて表を見た時、『実績』と言う表現は衝撃的だった。そして、「ああ、女性をターゲットにしなければ、特殊慰安隊を設置する事もなかったのだろう」と考えた。実際、朝鮮戦争当時の慰安婦は人では無く、ただの第5種補給品だった。人で無く『補給品』である。

連帯1課から中隊に第5種補給品の受領指示があって行ってみると、我々の隊にも週8時間制限で6人の慰安婦が割り当てられた。

キム・ヒオ<人間の香り:自由民主/対共闘争と共にした人生の経歴>、怨民2000 p70


再び統計に戻る。1952年の特殊慰安隊実績統計表によると、同年ソウルの3個特殊慰安隊と、江陵(カンヌン)の1個特殊慰安隊に所属する慰安婦は、20万人以上の軍人を相手にしている。慰安婦1人が1日平均6人以上との性行為を強要されたのである。

しかし、ここに示される『実績』は、4個慰安隊に出入りした軍人の統計なのか?前線部隊に出張した慰安隊を利用した軍人の統計も含むのか?が不明確である。その為、1日平均の被慰安者数が更に多い可能性を排除出来ない。

ここで言う『出張』とは、本来特殊慰安隊の配属場所で軍人を相手するのでは無く、慰安隊員を戦闘中の軍人の為に前線に送る事を意味する。

(1952年)3月中旬の気候は春を妬むように寒かった。[・・・]師団の恤兵部(じゅっぺいぶ)から将兵を慰問しに来た女慰安隊が、部隊の宿営地の付近に到着したと通知があった。中隊の幹部の報告によると、これらは24人用の野戦テントに、合板と雨衣で仕切った野戦ベットルームに収容されていると言い、別の中隊の兵士は、列を作り、たくさん利用したと言う。

チャ・キュ古い予備役陸軍大将回顧録<戦闘>(1985年)より


朝鮮戦争中、前線が固定化した1951年7月以降、後方に売春街が拡大した。法的には、1947年以降公娼制度は廃止されたが、効果は無かった。売春街があっても、戦闘で駐留する軍人が女に会う事は出来なかった。将校は現地妻を置き、時々兵士が強制連行した女性から『性の上納』を受けた。一般の兵士は、占領地の女性をレイプする事で性欲を解消した。

実際、韓国軍が38度線の北側の地域を占領した時、いわゆる人民軍や赤(共産主義者)の家族の女性は、殆ど例外無く、レイプされたと言う。毎晩韓国軍が若い女性をレイプして回っているとの噂が隣の村から伝えられ、すぐにその噂は事実である事が分かった。

何人もの娘が3度以上レイプされ村を離れ、ある者は襲われる事を恐れて乞食を装ったり、精神病患者のフリをしたと言う。陸軍本部は、前線が固定化し、この混沌とした状況を整理する為、戦闘で苦労が多い軍人の慰労・ 褒賞の為、特殊慰安隊を組織した。

更に、前線で慰安婦隊への出入りは唯一の褒賞だった。『チケット制』、つまり慰安婦と寝るには、チケットが必要だが、誰にでもチケットを分けてやるので無く、戦場で勇敢に戦い功績を立てた順に配付する。更に、手柄の程度により、チケットが違ったと言う。

兵士達は、「早く出てこい! 早く出てこい!」と叫びまくっていた。私は、その時始めて、そこがどんな所かを知った。テントに入り、女にチケットを渡し、10数分間楽しんで出て来るような所だった。その瞬間、その瞬間、私は恥ずかしいという気持ちと、一方では好奇心を感じた。

ハン・インス、《格量の歳月とインシャルラ》 ソウル:キョウムサ2003 p96


そうかと思えば陸軍本部の<後方戦史>によると、軍は性病に徹底した対策を講じた。慰安婦は週2回軍、医官の厳格な検診を受け、軍人には薬を処方した。しかし、キム・クィオク教授の口述研究の結果、当時、韓国軍の性感染症の発症は、1度や2度の事ではなったと見られる。

「(1950年代)兵役に就いた韓国軍人ならば、最低1度ぐらいは梅毒にかかる必要がある』と言われるほどだった」

2016年、パリ7大学キム・クィオク教授のセミナーより


このように、韓国軍慰安婦の存在を否定する余地は無い。大韓民国陸軍本部が発刊した<後方戦史>だけで無く、当時軍に身を置いた者の回顧録や自叙伝のあちこちに、韓国軍慰安婦の痕跡が示されている。確実な証拠があるにも関わらず、韓国軍慰安婦が急速に忘れられて行ったのは、自身が慰安婦だった事を明かす証人が不在だからであろう。

そして、韓国軍慰安婦として生活した女性が、どんな人だたのか?への答えは、間接的な証言に基づき推測するしかない。実際に韓国軍慰安婦が公開募集されたと事実は、どこにも見付からない。

キム・クィオク教授は、慰安婦と推定される数人に会ったが、『泣きながら沈黙』するだけで、『墓まで持っていこうと思う』と言った翌日、突然証言し始めた。これから紹介する3人の話は、加害者の口から出た話を再構成したものである。

1951年.、ムン氏は少女だった。多く見積もっても17才、38度線の向い側の朝鮮女性同盟院で活動していた。ある日、ムン氏は同じ町内に住んでいるガールフレンド4人と一緒に、韓国軍諜報部隊員(北朝鮮派遣工作員)に拉致され南に連れて行かれた。

少女は昼は部隊で、あらゆる雑役(清掃・洗濯など)をし、夜は部隊員の性奴隷になった。1953年7月27日の停戦協定発効後、捨てられた。当時の事を尋ねるキム・クィオク教授にムン氏は、「戦争中に子供を産み、苦労して生活して来た事しか覚えていない」とし
、 やがて、これ以上話す事は無いと、過去を思い出す事をきっぱりと否定した。

他の2人の女性は医科大生だった。人民軍に連行され、軍医官としてしばらく生活した。人民軍は洛東江(ナクトンガン)に進軍(或いは撤退)し、そこに身を置いた。

自由の身になって幾らも絶たずに2人は韓国軍に出会う。そして捕虜となり、軍の部隊に連行された。そこでの彼女達は孤独では無かった。すでに多数の10代の少女が、制服、或いは韓服を着て、人民軍反逆者(朝鮮戦争中、38度線より南の地域が人民軍の勢力下にあった時、自分の意志、又は他意で人民軍に協力した者)として監禁されていた。

どれくらい過ぎただろう?2人の内、年齢が若い1人は将校に『性上納』する境遇に置かれる。天の助けか?将校は彼女に求婚する。将校との結婚で、少女は人民軍反逆者・軍慰安婦になる事を免れる事が出来た。もう1人は投獄され、スパイ容疑で拷問された。幸い家族や知人の保証で釈放され、軍の慰安婦になる事は免れたと伝えられている。

キム・クィオク教授が、最初の女性、将校と結婚したと証言した女性に尋ねた。

「当時、捕えられていた数十人の10代の少女はどうなったのですか?」

彼女は淡々と軍慰安婦になったと答えたと言う。どうして分かったのか?と言う問いに、冷たく答えた。

「明らかではないか」

これらの証言はどんな形で韓国軍特殊慰安隊が組織されたのか?予想させる例として重要である。3人の女性の証言だけで無く、朝鮮戦争当時、前線にいた軍人、つまり陸軍本部式で言えば『被慰安者』だった者の証言とも一致する。

被慰安者は、当時の慰安婦女性を回想し、化粧をしたオシャレな売春街の女性で無く、垢ぬけない容貌の15~16才程度の幼い女性だと話した。リ・ヨンヒ先生の自叙伝<経歴-私の青年時代> (チャンビ、1988)にも、韓国軍慰安婦の話が登場する。

朝鮮戦争当時、自身の部隊に軍慰安婦数人が出張慰安に来たが、その内の1人は部隊員と同郷の有人だったと言う。

キム・クィオク教授は、韓国軍慰安婦は強制連行された女性、又は『赤(共産主義者)』や『赤(共産主義者)の家族』に分類され、軍に拉致された女性で組織されたと見ている。

実際、キム教授が会った3人の女性は、全て社会主義者だったか、或いは自身の意向であろうと、他意であろうと、人民軍側に立った者である。勿論、戦争孤児が一部いるかも知れないが、軍慰安婦女性の大半は、左翼反逆容疑者と推定されると言う。赤(共産主義者)。作家 故パク・ワンソの小説は、『赤(共産主義者)』のレッテルが、この地に許した野蛮が、どの程度だったのかを記憶している。

いわゆる赤の容疑を持たれる状況で、武装軍人が要求する慰安婦を断る事は死を意味した。左翼を口実に、簡単に連行する事は出来なかったと言う事である。

我々は共産主義を信奉する北朝鮮と、韓国でも左翼のイデオロギーを持つ人々を、十把一絡げに赤(共産主義者)と呼んだ。[・・・]この地では、赤(共産主義者)と言われる事が最も苛酷なイジメだった。

パク・ワンソ《辿りつけない道が、なお美しい》ソウル:現代文学2010 p167


ソウルを修復した政府が最初に力を入れた作業は、市民証と道民証の発行だった。

それ以前、平民に身分証は無かった。[・・・]審査が厳しく、反逆者の疑いを持たれたり、告発されれば市民証を貰う事は困難だった。

その頃、中国共産軍の参戦で、鴨緑江(アムノッカン)まで北進した国連軍が、作戦上後退する事になり、ソウル市民も動揺し始めた。権力者や金持ちが、真っ先にソウルを逃げ出した。[・・・]

(私の)兄が6.25の時、招集を拒否したと疑われ、市民証が取得出来ず、身動き出来なくなっていた。市民証は、生命の紐の時代だった。それが無ければ、赤(共産主義者)扱いされた。赤(共産主義者)は人間でも無かったから

パク・ワンソ《辿りつけない道が、なお美しい》ソウル:現代文学2010 p61~62


整理してみよう。

仁川(インチョン)上陸作戦以降、韓国軍と連合軍が北進し、いわゆる赤(共産主義者)への報復が行われた。その過程で女性への報復は、レイプとして現れた。そんな雰囲気の下、1951年の夏、戦線が固定化し、『特殊慰安隊』、つまり韓国軍慰安隊が設置されたのである。

陸軍本部が正式に設置したが、その動員方法は以前と大差無く、拉致などによる強制動員で、慰安婦は反人権的な奴隷状況に置かれ、働かされたのである。

そして2002年、ある研究者の発表は最終的にいわゆる我が国の社会のエリートに無視され、2016年の今日に至るまで、浴びるべきスポットライトを浴びる事が出来ない。

ファマ(悪魔の火災)が舐め尽した韓半島
泣いても、泣いても、流れ出る声の無い号泣
拭いても、拭いても、流れ出て止まらない血液

60年、忘れるはずなのに
口がきけない人間、引き裂かれ傷付いた翼をバタバタ
口がきけない人間、心の記憶を歌う

朝鮮戦争当時人民軍に捕まり、軍医として再び韓国軍に連行され、慰安婦になるところだった女性の詩である。詩の中で彼女は口がきけない人間. 60年過ぎても忘れられない彼女の記憶を歌うが、その声は身体に流れる血のように、自身の肉体に閉じ込められ、外に出て来る事は無い。彼女を口がきけない人間にしたのは誰か?

口がきけない人間のために

数ヶ月前、とあるインターネットサイトで、たった今屠殺された牛肉が動く様子に対する理系と文系の異なる反応が話題になった。理系と思われるベストコメントは、「筋繊維が刺激され、細胞膜を中心に『動き始め』、カルシウムが本来の保存部位に吸収されれば筋繊維は元の状態に弛緩するんだよな!!」で終わり、文系のベスト コメントは、「明らかに死んだ奴の肉だけど、くねくね動いてるな。あの血も動いている。凄い生命力だ」と、肉の生への意志に嫉妬すると告白した。

このように1つの主題を投げかけても、各自の立場、普段の考え方、価値観、そして事案について事前に知っている背景や知識で、それぞれ異なる部分に重点を置き議論を進めて行く。

韓国軍慰安婦問題を通じ、我々は何を感じただろう?また、何を話そう?この問題に初めて接した人は、恐らくく少なくないショックを受けたはずで、すぐに韓国軍慰安婦に内包された意味と関係性を探し始めたはずである。

ある者は女性問題を考え、ある者は戦争の残忍さを思い出したかも知れない。また、誰かは筆者が想像出来ない事をやり遂げたかも知れない。今日、筆者が韓国軍特殊慰安隊問題に接して言える事は、せいぜい3つである。

第1に、韓国軍にとって、慰安婦は何でもなかった

この深刻な事実を、韓国軍は大した事では無いと思った事は明らかである。特殊慰安隊の存在が問題になると考えていれば、公式資料である<後方戦史>に、あんなに堂々と、軍慰安婦は前線で苦労する軍人の厚生の為の当然の措置とは書かれているはずが無く、詳細な『実績統計』に入れなかったはずである。

朝鮮戦争当時、慰安婦の存在は、当然の措置を越え『必須』要素と認識されていた。1952年、当時200~300人規模の軍慰安婦隊は、戦争で拡大した60万人軍人の需要を満たす事が困難になる。その上、1951年7月の休戦会談を始め、最前線が小康状態になるとすぐに、軍規が乱れ始めた。そのような背景で、1952年末、メディアは慰安所施設を拡充しろと主張し始めた。

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『全国各地に、一線の将兵の休暇帰郷時、疲れた心身を解放し、勝利の為に命までをも捧げる真の愛国者の士気高揚の為、暖かな慰安所を早く設置する事』

東亜日報1952年12月30日付、『休暇帰郷将兵の為に慰安所を設置しよう』


特殊慰安隊の新設時期は、すでに朝鮮戦争が終了した後の1953年11月で、停電になったものの韓国と北朝鮮は、約60万人の大軍を維持した。

休戦当時、大半の部隊を休戦ライン付近に配備し、軍人の除隊を遅らせるには、彼らを落ち着かせる必要があった。その為、大韓民国国軍は、慰安婦制度を維持する事を決める。

1954年3月、特殊慰安隊の解体後、軍部隊周辺には多数私娼売春業が出来、その役割を代行する事になる。特殊慰安隊は、そうして解体されたが、ついに解散する事は無かった。

しかし、戦争が終わり、特殊慰安隊も消え、慰安婦の存在は多数の『被慰安者』の記憶の中からも忘れ去られていった。キム・クィオク教授が会った被慰安者は、すっかり忘れていたが、日本軍慰安婦問題が世間を騒がせるようになって初めて、韓国軍慰安隊を思い出したと言う。特別な思い出以外は忘れ、灰色の光がぼやけたように残り、突然何かのキッカケで、本来の色を取り戻す事になるらしい。

韓国軍慰安婦への国防部の立場が変わったのは、2002年漢城(ハンソン)大学のキム・クィオク教授と韓国挺身隊研究所のカン・ジョンスク研究委員の発表を基点にしている。

以前は深刻に思わず、或いは忘れていた為『堂々』としていたが、その後<後方戦史>閲覧を不可能にしたと言う事は、少なくとも2000年代以降は、朝鮮戦争当時、軍が行った事について、問題は無いと言うような態度を取る事が困難になった事を示していると考えられる。しかし、国は相変らず、謝罪はおろか、何の措置も取っていない。

第2に、韓国軍慰安婦は日本軍慰安婦の延長である

キム・ヒオは、自身の中隊に、『第5種補給品』が割り当てられた話の中で、「以前、日本軍に従軍経験がある一部の連帯幹部の士気高揚の為の発想からワザワザ大金の厚生費を投入し、ソウルでは組織的な運営に変わった」と明かしている。

実際、解放後に創設された大韓民国陸軍幹部の相当数は日本軍出身者と満州軍出身者で構成されていた。被支配者だったにも関わらず、日本帝国主義の代理戦争人を自ら要望したのは彼らである。

日本軍出身者の大半は解放直後、大韓民国国軍の主要ポストを占めていた事が分かっている。解放後米軍政下で、韓国軍は形式的にはアメリカ式に改編されたが、軍部では親日派が勢力を伸ばし、日帝軍隊文化と制度を事実上踏襲したのである。

実際、韓国軍特別慰安隊の設置・運営の責任者である陸軍本部厚生隊(1951年恤兵隊、1954年正兵隊に改称)は、全て学兵、或いは日本陸軍出身だった。

その内、特別慰安隊を設置した組織人恤兵隊の前身である厚生隊はパク・ギョンウォンによって設立された。

パク・ギョンウォンは植民地時代、学徒兵として参戦し、解放直前に除隊し、解放後、軍事英語学校を経て、中将として予備役に編入された後、パク・チョンヒ政権下で4代に渡り内務長官を含む5度、長官職を歴任した人物である。

更に、韓国軍特別慰安隊の設置推定時期である1951年と~1952年恤兵官を担当したのは第3代陸軍大佐チャン・ソギュン 1892年生まれで、日本陸軍士官学校の第27期生で、1915年日本陸軍士官学校を卒業した。

1928年天皇の即位記念大礼記念賞を貰い、1938年満州の国境監視隊に大尉として服務した。日帝敗戦当時は、満州国軍中佐だった。

解放後帰国し、軍に入隊し、朝鮮戦争当時、第9予備師団長、教育総監部参謀長を経て、1953年陸軍大佐として予備役に編入された。予備役編入前の1951年3月1日~1952年6月19日まで陸軍大佐として陸軍本部恤兵官を担当した人物である。

結局、日本帝国主義は清算されず、残滓が2師団を率いたのである。

人物の連続性で無くとも、その主張を後押し出来る根拠は様々ある。

特殊慰安隊の設置目的は、性欲を処理出来ない軍人が、鬱病を患う、或いは性犯罪を犯し、戦力に損失が出る事を未然に防止する為だった。男性の性欲は本能であり、統制出来ないものと考え、『戦争に勝つ』と言う、更に大きな目的の為に、女性を犠牲にしても構わない対象(第5種補給品)として扱う視線も、日本軍が慰安施設を設置した時と一致する。

ただし、日本軍の場合、完全な日本国民で無い植民地女性を動員し、韓国軍の場合、赤のレッテルを貼り、(同様に)異なる形で、完全な国民で無い女性を動員した違いだけである。

動員の強制性問題と共に、2週に1度、軍医の検診があった点も、日本軍慰安婦制度の延長と見る事が出来る。強制的な検診制度は、日本の公娼制が持つ主な特徴の1つで、 つまり韓国軍の当時の首脳部は、日本のシステムを経験し、性病などへの対処法をすでに学習していた事になる。

日本帝国主義と同じように解放された韓国でも、国が女性の肉体を管理・統制する事で、軍人の肉体を保護する政治学を活用したのである。

一方、日本の場合、慰安婦施設を運営でコンドームを配布した事が分かっているが、韓国軍には、避妊に関連する記録は無いと言う。特殊慰安隊の名称も、日本軍慰安隊を示す用語『特殊慰安所』から来ていると考えられている。

国軍の慰安婦問題は、過去の歴史清算問題の一部として存在し、見慣れない問題も、逸脱した問題でも無いのである。

勿論、韓国軍の慰安婦問題が最近まで沈黙が守られて来た根底には、日本軍慰安婦問題と一緒に、韓国の家父長的性文化を含む、家父長制のイデオロギーが作用している。

にも関わらず、軍の慰安婦制度が朝鮮戦争当時、陸軍によって施行された事は、日帝植民主義が内在した満州国軍や日本軍出身の韓国軍幹部がいたから可能だったのである。

キム・クィオク(2014). ≪日本の植民主義が、朝鮮戦争当時、韓国軍の慰安婦制度に及ぼした影響と課題≫ 103, p111~112


第3、そんな韓国軍が、ベトナム戦争でレイプの主犯になった事は、別の見方をすれば当然の事だった。

韓民族を、白い服を着た平和を愛する者だと誰もが信じ、誇りに感じた時があった。

その時見たチョ・ソンモの歌『ご存知ですか(2000)』のミュージックビデオは非現実的なものだった。歌に合わせたミュージックビデオは、ドラマチックで楽しいものだった。

チョン・ジヨン監督の<ハヤン戦争>(1992)、,コン・スチャン監督の<アールポイント>(2004)、イ・ジュンイク監督の<あなたは遠い所に>(2008)など、ベトナム戦争に関連した文化コンテンツが継続的に生産される一方、ドキュメンタリーで、ベトナムの戦争犠牲者追悼碑と、韓国軍への憎悪のニュースが、継続的に耳に届いるにも関わらず、子供の頃に吸収したプロパガンダから離れる方法を知らなかった。

むしろ、良いものは良いとし、我が国万歳(マンセー)を叫び、そんな素晴らしい国に生きる素敵な自分でありたいと言う愚かな欲望が、プロパガンダを再生産していた。

だから韓国人は、悪い日本の奴にやられたが、平和を愛する者だから、他国に悪い事をするはずが無いと思っていた。

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しかし現在、ベトナム戦に参戦した韓国軍の蛮行は、既定事実化されている。

民間人虐殺だけで無く、ベトナムの女性へのレイプも頻繁に発生した。ライタイハン、つまり韓国軍人と現地のベトナム女性の間に生まれた2世問題の解決への道は遠く、政府次元の補償や謝罪が行われていないだけで無く、参戦軍人団体の抵抗は未だ激しい。昨年4月、ベトナムから韓国軍民間人虐殺被害者が訪韓した集会を、参戦軍人団体は組織的に激しく妨害した。

ところが、韓国軍と米軍は、肉体的快楽の為にベトナム慰安婦女性売春所を作り、被害者は約5,000人~30,000人と推定されるとの主張が提起されている。

日帝の軍文化と制度を事実上踏襲した韓国軍が、慰安婦制度を受け継ぎ、むしろ自分式に発展させ、運営して来た経験に照らせば、初のベトナム戦で韓国軍が平然と行った大規模なレイプの背景が理解出来る。

実際ベトナム戦に参戦した韓国軍は、再び慰安隊を作り、ベトナムに連れて行こうとしたが、それを米国は断った。

拒否の要旨は、韓国軍が受け取る月給で十分女を買えると言う事だった。

結局、我々は日本帝国主義と言う、外部から来た野蛮を捨てられず、我々のものとして吸収した。そうして内在化された野蛮は、我々を我々が罵る者と同じ怪物にした。

この大きな問題で、我々の心は軽くなるのか?或いは更に重くなるのか?

韓国軍慰安婦、ベトナム女性へのレイプの原因を、日本帝国主義に見付ける事が出来れば罪の意識は軽くなるのか?或いは、日本帝国主義の残滓を清算出来ず、親日派を処断出来ない歴史の誤ちによる惨状の前で更に心は重くなるのか?

現在、韓国社会の雰囲気の中で、韓国軍慰安婦被害者が自身の存在を証明し、水面上に出て政府と軍に謝罪と被害賠償を要求する事を期待するのは困難である。

だからこそ、今日韓国で生きる市民には、我々の社会の過去の誤ちを認め、反省し、その力で更に前進出来る踏み台を作ると言う宿題がある。そして、その宿題は、以前の我々の社会の誤ちを認知する事からスタート出来るはずである。

勿論、選択は各自の役割である。
http://www.ddanzi.com/ddanziNews/115044941

長かった~。
途中で、何度もやめようとし手が止まったから、時間かかってゴメンね?
一応、資料の1つとして翻訳してみた。

キム・クィオクと言う研究者が、どんな目的で調査を始めたのかは分からない。
が・・・韓国では、どんな研究者のどんな研究結果も、韓国、又は韓国軍、又は自国の民族の責任にはならず、必ず日帝の責任と言う事になる。
キム・クィオクも、『悪いのは日帝で、日本の右翼が私の研究成果を捻じ曲げ利用している』と主張している。(笑)
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プロフィール

nanakotedy

Author:nanakotedy
イタリア ローマで生まれ、10歳までイタリア育ち
大学卒業後、帰国
母方の祖父母と同居中

度重なる歴史認識の違いと言う言葉に、改めて近代史を学び直しています

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